バスが再び大きく揺れた。どうやらバスは蛇行し始めたようだ。
「何してるんですか、矢田さん!」
スタッフが運転手に向かって叫んだ。すると運転手は狂ったように笑い出した。
ヘソ出し女はよろけながらも前へ走った。ホスト風の男も立ち上がって前へ向かった。
外から金属が擦れるような音と振動が断続的に伝わってくる。ガードレールに当たっているらしい。窓の外のガードレールのむこうには地面が無く、その下方には闇が横たわっていて、どれほどの深さの谷なのか見当もつかない。
米山が叫んだ。
「おい!何事だよ!」
ヘソ出し女は運転席に辿り着き、数珠を持った手を運転手の背中に当てて渇を入れた。次の瞬間、糸が切れたように運転手はぐったりしてしまった。女はハンドルを掴むと運転手を引きずり倒し、運転席に飛び乗ってブレーキを踏んだ。タイヤが大きく鳴ってバスは停車した。
停車の際に転んでしまったホスト風の男は、立ち上がりつつ言った。
「停まったら、やばいぜ」
「わかってるけど、しょうがないでしょ」
ヘソ出し女はスタッフとホスト風の男に気絶した運転手をどけさせながら訊いた。
「ADさん、運転できる?」
「バスはちょっと・・・」
「安田君は?」
ホスト風の男は安田というらしい。
「できねえよ」
女は振り向いて叫んだ。
「だれか運転できる人、いる?」
だれも答えない。
「しょうがないな」
女は運転席に座りなおした。
「あたしが運転するから、安田君は結界をお願い」
「はいよ」
バスが走り出し、安田は前のほうで何やら始めた。
卓巳は横で震える女子学生に訊ねた。
「何が起こってるの?」
「わかりません」
下を向いたまま女子学生は答えた。
「よく有るの?こういう事」
「こんなに怖いの、わたし初めてです。だから嫌だって言ったのに・・・」
卓巳は唾を飲み込んで辺りを見回した。やはり何も見えない。けれども、ただならぬ空気だけはなんとなく伝わってきていた。
そこへ安田がやってきた。
「ちょっとごめんなさい」
安田は小さな木の箱を卓巳の後ろへ置いて何か唱えた。それから右端の後ろにも木の箱を置き、同じように唱えてから元の席へ帰っていった。
中年女性と坊さんは手伝わないのかと思って見てみると、席でぐったりしている。何があったのかわからない。
安田がヘソ出し女に向かって言った。
「まだかよ、マリア。かなりやばいぜ」
ヘソ出し女はマリアという名前だった。
「まだまだよ」
「もっと、とばせないのかよ」
「無理言わないで。こんな山道で」
その時、卓巳は米山が静かな事に気が付いた。顔を覗いてみると白目を剥いてぐったりしている。明らかに気絶していた。
「なんで・・・」
さらに前のほうを見ると、知らぬ間にスタッフも気絶しているようだ。
「安田君!なによ、このちゃちな結界!」
突然、マリアが叫んだ。
卓巳の横で女子学生がつぶやく。
「いや・・・」
マリアが再び叫んだ。
「安田君!聞いてるの?ちょっと!」
「無理!手が離せねえ!」
安田は妙な道具を手に、一心不乱に何かを唱え続けている。
「ごめん」
言うと卓巳は思い切って女子学生の肩に手をかけた。その途端、再びこの世のものとは思えぬ光景が飛び込んできた。しかも霊の数が極端に増えていて、窓を埋め尽くす程にびっしり貼りついていた。もちろん卓巳のすぐ横や後ろの窓にも。
「あ、あ、あ・・・」
声にならない。
マリアが、また叫んだ。
「行ったよ!安田君!」
その声に卓巳が前を向くと、いるはずのないワンピースの女が、バスの通路を前のほうからゆっくり後ろへ向かって歩いてくる。
安田が叫んだ。
「無理だよ!なんとかしてくれ!」
「バカ言わないで!運転してんのよ!自分の防御で精一杯!」
「マジかよ!」
どうやら安田は窓に貼りついているものを必死に抑えているらしい。
女の霊は安田の横で一旦止まったが、間もなく動きだすと安田を無視して後ろへ歩いてくる。
「うわっ、来たっ」
卓巳のその言葉に反応したように、女子学生がつぶやいた。
「手を離して・・・」
見ると、女子学生の前髪から覗く瞳は涙を流して卓巳を見つめていた。
「見ちゃだめです。霊は見える人に興味を持つから・・・」
ガタガタと音の聞こえそうな震えが肩に置いた手から伝わってくる。
卓巳は前を見た。足を引きずるように、ゆっくり、ゆっくり、女が近付いてくる。卓巳は女子学生からそっと手を離した。一瞬にして霊たちの姿が消えた。
女子学生は両手で耳を塞いで下を向いた。いつの間にか手には数珠が握られていて、消え入りそうな微かな声で何かをぶつぶつ言っている。他の霊能者と同じように呪文でも唱えているのかと卓巳は思ったが、よく聞くと違っていた。
「たすけて・・・お母さん・・・お父さん・・・」
気付いたときには卓巳は女子学生を抱きしめていた。何ができるとも思えなかったが、そうせずにはいられなかった。
「だめです・・・離れてください・・・」
女子学生は掠れた声で驚いたように言った。
卓巳は怖くて霊のほうを見ることができなかった。震えているのさえ、女子学生の震えなのか自分の震えなのか既にわからなくなっていた。
「くっそー。来るなー。怖くなんかないんだよー。くっそー。怖くないぞー」
卓巳は精一杯に声を搾り出した。
すると女子学生は卓巳の胴に腕を回してしがみついてきた。卓巳は女子学生の小さな体を守るように包み込んでしっかり抱きしめた。
バスが大きくカーブしたところで安田が叫んだ。
「まだかよ!」
「多分もう少し!」
マリアが答えるのと、ほぼ同時ぐらいだった。この世のものではない事をはっきり認識できるほど冷えきった手が、卓巳の肩にかけられた。
「ひっ」
卓巳の声は裏返り、女子学生を抱く腕に力が入った。
次の瞬間である。ポンッと栓の抜けるような音が、卓巳には聞こえた気がした。その直後、今まであれだけざわめいていた空気がスイッチを切ったように静寂に変わった。聞こえるのはバスの走る音だけ。卓巳の肩にかけられたはずの手の感触も消えている。
卓巳は恐る恐る顔を上げた。窓にびっしり貼りついていた霊がきれいにいなくなっているようだ。何が起きたのかわからないまま腕の中の女子学生を見ると、卓巳の胸に頬を埋めて硬く目を閉ざしている。
急に気が抜けたのか、意識が薄れてゆく。そんな中で卓巳は何かに誘われたように傍らの通路へ目を向けた。意識を失うその間際に見たものは、小さな男の子の笑顔だった。
プロローグ 終わり



