遅くなってもすぐに舞が帰れるようにと、八実駅近くのレストランで夕食をとることになった。わざわざ来てもらうのは申し訳ないと舞は言ったが、卓巳は久しぶりにこの辺で食べたかったから気にするなと言った。おそらく、かすみとこの辺でよく食事をしただろう事は、舞にも容易に想像ができた。
「訊きたい事ってなんですか?」
舞は言ったが、卓巳はメニューを穴が開くほど見つめている。
「ちょっと待って。君は決まったの?」
「はい」
「何にした?」
「オムライスです」
舞の選んだのはオニオンスープの付いたデミグラスソースのオムライスである。
「うーん、そうか」
卓巳はまだ悩んでいたが、不意に顔を上げて舞を見た。
卓巳はしばらく舞を見ていたが、再びメニューに目をやり、また顔を上げて、笑っているとも困っているともつかないような微妙な表情で舞を見つめた。
「あ、あの・・・」
舞が戸惑っていると、卓巳は穏やかに微笑んだ。それから、ゆっくりウェイトレスを呼んだ。
「あのね、オムライスを二つください。で、一つはデミグラスソースじゃなくてケチャップをたっぷりかけて、スープも一つはコーンスープに替えてください」
「はぁ?えーと、それは・・・」
ウェイトレスは困っている。けれども卓巳は当然のように言った。
「あ、店長に平原って言えばわかります。以前はよく来てたから」
「あ、そうですか。失礼いたしました」
ウェイトレスが去っていくのを待って、卓巳は言った。
「それでね、訊きたかったのは、村田慎二さんの一件、実際はどうかって事なんだけど」
「実際と言いますと?」
「ドッペルゲンガーだよ。何か感じた?」
「べつに何も。先生ご自身で結論を出されてたじゃありませんか。わたしも先生のおっしゃる通りだと思います」
「そ、そうか?」
「はい」
舞はまっすぐに卓巳を見ている。
「じゃあ、柴田達が計画してる学校の七不思議について、どう思う?」
「どう思うって何がですか?」
「いや、出そうだとか、やるだけ無駄だとか・・・」
「わかりません」
「わからないってのは、いそうにないって事?」
「そうではありません。夜の学校をわたしが知らないという事です。昼間はたまに見かけますけど、昼と夜とでは違いますから」
「いるの?昼間」
「それは、まあ。先生の隣になら結構な確立でいますし」
「・・・・・・」
卓巳は舞の視線を伝って自分の横を見た。そして少しきょろきょろした。
舞は手を伸ばしてテーブルの上の卓巳の手を掴んだ。すると卓巳の目の前に無邪気に笑う見覚えのある男の子が現れた。卓巳は恐る恐る声をかけた。
「君はだれ?僕とどういう関係かな」
男の子は答えず、きゃっきゃと笑うと店の中を走り出した。
唖然としている卓巳に舞は言った。
「無理ですよ。彼は言葉でのコミュニケーションが取れないんです」
「どういう事?」
「子供の姿をしていますけれど、彼はたぶん赤ん坊か、それとも・・・」
舞は卓巳の顔を覗き込むようにじいっと見つめた。
「な、なんだよ」
「水子か」
卓巳は慌てた。
「まてまて、身に覚えが無いぞ」
「先生の子供とは限りません。くっついてきてしまうって事もありますから」
心なしか舞の口元が笑っているように見える。
「そ、そんな事より、君の言った感じだと夜の学校にも昼と同じように普通にいるのかと思えるけど、そうなのかな」
「んー、ちょっと違います。昼と夜って根本的に違うんです。何故だかはわかりませんけれど、夜は霊たちの力が強くなるというか活動しやすくなるというか・・・」
「じゃあ、夜の学校は多く出るってこと?」
「そうかもしれません。それに、学校という場所は特殊なんです」
「特殊?」
「聞いた話なんですけれど、学校という場所は卒業生も含めるとものすごい数の人が通っていて、それだけの人が良くも悪くも色々な思いを寄せる場所だから、鎌ヶ井高校みたいに歴史のある学校には霊が集まりやすいんだそうです」
「興味深い話だね」
卓巳は身を乗り出した。
「どこの学校にも七不思議の話が有るのはその為なんだそうです」
「危険はないの?君、前に興味本位で心霊スポットへ行っちゃダメだとか言ってなかったっけ」
「日常と違う場所では暗示にかかっておかしくなりやすいっていう意味で、霊が危険っていう意味ではありません。夜とはいえいつも生活している学校で、きもだめし程度の気分なら、体調が良ければそう問題は無いんじゃないでしょうか」
「じゃあ、安心だな」
「いえ、安心なのは精神的な問題だけですよ。誤解しないでくださいね」
「ん?どういうこと?」
「危険な霊がいるかどうかまでは、実際に見てみないとわからないっていう事です」
「そうなの?能力があってもわからないものなの?」
「わかりませんよ。わたしは、あのバスに乗り合わせていた凄い人たち程の能力はないです」
三年前の体験の話だ。凄い人たちとは、マリアという女と安田という男の事に違いない。
「あの二人は、なんか凄そうだったよね」
「わたしは自分の能力の使い方をその道の人にほんの少し教えてもらった程度です。知識だって乏しいし、あの時ほどの怖い体験だって、あの時以外にしたことないですから」
「そうか。なんか無理言ってごめんな」
「いいえ、それはいいんです。でも、心霊現象なんて先生のほうがよっぽど詳しいんじゃないでしょうか」
「まさか」
「だって、例えばドッペルゲンガーについてなんて、わたし今まで考えた事もなかったですよ。先生の説明を聞いて、初めてどういうものか知りましたから」
「そうなの?」
「人って自分のしている事について、意外に知らなかったりするじゃないですか。わたし、普通にパソコンを使ってますけど、じつはよく知らないんです。詳しく知るには、やはり興味を持って勉強する必要があると思うんです」
「まあ、そうだろうね」
「わたしは自分が使っている能力や見ているものが何なのか、それを知りたいんです」
舞が何を言いたいのか卓巳は気付いた。だからだったのかと思い、卓巳は申し訳なさそうに言った。
「何度も言うけど、心霊物理学の研究者はもういないよ」
「わかってます」
舞は今度は下を向かなかった。マジックニードルへ行ったおかげで、舞には既にわかっていた。興味のないような顔をしているが、本当の卓巳は、それを満たすためには都合の悪い事が見えなくなってしまうくらい、好奇心が抑えられないのだ。それだけで充分だった。舞はきっぱりと言った。
「わたし、心霊研究会に入会します」
「えっ?」
卓巳は複雑な顔をした。
「だめですか?」
舞が自分の意思で入ると言うのなら、卓巳に止める権利は無い。いや、むしろ心のどこかで願っていたに違いない。
「いや。もちろん歓迎するよ」
卓巳はあらためて微笑んだ。
そこへ、卓巳の真横から声をかける人がいた。
「あ、あの・・・よろしいでしょうか」
ウェイトレスだった。オムライスを運んできたのだ。
その時になって卓巳と舞は、自分たちが手を握り合ったまま身を乗り出してじっと見つめ合っていたことに気付いた。
「あ、ああ、お願いします」
卓巳と舞は慌てて離れた。うしろめたい事をしていたわけではないが、ウェイトレスは誤解しているに違いなかった。去り際に「お邪魔しました」と言って急いで帰っていった。
「ま、まあ、食べようか」
卓巳は舞から視線を外して食べ始めた。
舞のオムライスはデミグラスソースがかかっているこの店のお勧めメニューだったが、卓巳のオムライスはこれでもかとケチャップのかかったオムライスだった。卓巳はそれを口の周りをケチャップで汚しながら嬉しそうに食べた。いつも食事している時のクールな様子とはまるで印象が違う。
舞はくすりと笑い、ペーパーナプキンをそっと卓巳に差し出した。卓巳は顔を上げると照れくさそうにそれを受け取った。
二夜目 もうひとりの自分 終わり
二夜目 もうひとりの自分 (八)
二夜目 もうひとりの自分 (七)
次の日の朝は爽やかに晴れ渡っていた。ところが物理準備室の中だけはどんよりとしていた。舞は心配で授業の前に立ち寄ってみたのだが、卓巳は前の日と同じ怖い顔をしていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
受け答えは普通なのだが、なんだか生気を感じられない。
「先生、訊きたいことがあるんですが、いいでしょうか」
「ん、何?」
「昨日の夕方五時頃、八実駅の近くにいませんでしたか?」
昨日すれ違った卓巳らしき何かが本当に卓巳ではないのかを、舞は確かめる必要があった。
「昨日の夕方はここにいたよ」
「そうですか」
やはり、あれは卓巳ではなかった。
ただ、いま問題なのはこんな質問をしているのに卓巳が全く質問の意図に気付いていないということだ。普段の卓巳ならこの質問で舞がドッペルゲンガーに遭遇した可能性を思いつくだろう。舞はそっと物理準備室を出て自分の教室へ引き上げた。
放課後、物理準備室に一番近いトイレの鏡の前で、前髪を上げて舞は悩んでいた。かすみの言葉を思い出していた。
「舞ちゃん、髪を結わいて彼のところへ行きなさい。そしたら、すぐに戻るわ」
舞は少し考えてから前髪を下ろした。
「やっぱり、やめた」
舞はトイレを出て物理準備室へ向かった。
舞が物理準備室に入ると卓巳は相変わらず同じ顔をしていた。舞は入り口付近に立ったまま、授業の準備か何かで机に向かっていて舞に気付いていない卓巳をじっと見ていた。
そこへ沙織たちが騒がしく入ってきた。裕香のほかに、舞の知らない顔の女生徒がもう一人いた。
沙織は一枚の用紙を卓巳の机の仕事をしている上に無遠慮に置いて言った。
「これ、ゴールデンウィーク明けの最初の週末にやる合宿の企画書ね。目を通しておいてね」
「なに?鎌ヶ井高校七不思議調査研究集会?」
「去年も同じ時期にやったでしょ。毎年恒例なのよ」
「ああ、あの音楽室とか体育倉庫とかを回るきもだめしの事か」
「きもだめしじゃない。ちゃんとした調査よ」
「調査ったって、何も出やしなかったじゃないか」
「そうだけど・・・。とにかく、ちゃんと目を通しておいてよね」
沙織たちが出ていこうとするので卓巳は呼び止めた。
「どこ行くんだよ」
「参加者募集に行くのよ。七不思議のうわさ収集も兼ねてね。うまくいけば会員を増やせるでしょ。一人めぼしい一年生がいるのよ。合宿には興味示したし、なんとなく入会しそうな感じ。期待してて」
別に期待はしてないよと思いつつ沙織たちを見送った卓巳は、ドアの前に突っ立っている舞に気付いて声をかけた。
「あれ?何やってるの?座ったら?」
「はい」
椅子に座った舞に卓巳は言った。
「昨日は珍しく早く帰ったね」
「はい。ちょっと用事がありまして。それより先生」
「ん?」
注目している卓巳に舞は躊躇した。
「えっと、あの・・・」
それでも意を決して舞は切り出した。
「じつは今日、姉が飲み会なんです」
「?」
「それで、あの、一人分の夕食を作るのは面倒だし、だからといってお弁当屋さんというのも味気ないし、それで今日は外食にしたいなって思ったんです」
「・・・」
卓巳には舞が言わんとしている事がわからない。
「でも、一人でお店に入って食事をするのはなんとなく恥ずかしくて・・・」
半分は本当で半分は嘘である。慣れてはいないが恥ずかしいというほどではない。舞はじっと見つめる卓巳の視線に少し沈黙したが、思い切って言った。
「もし・・・あの、もしよかったらなんですが、今日は夕食をご一緒していただけませんか?」
卓巳はしばらくきょとんとしていたが、にっこり笑って言った。
「いいよ。じゃあ、今日は一緒に食べようか」
「本当ですか?」
舞の声がぱっと明るくなった。
「うん。ゆっくり訊きたい事もあったし」
こころなしか卓巳の怖い顔が消えたように舞には思えた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
受け答えは普通なのだが、なんだか生気を感じられない。
「先生、訊きたいことがあるんですが、いいでしょうか」
「ん、何?」
「昨日の夕方五時頃、八実駅の近くにいませんでしたか?」
昨日すれ違った卓巳らしき何かが本当に卓巳ではないのかを、舞は確かめる必要があった。
「昨日の夕方はここにいたよ」
「そうですか」
やはり、あれは卓巳ではなかった。
ただ、いま問題なのはこんな質問をしているのに卓巳が全く質問の意図に気付いていないということだ。普段の卓巳ならこの質問で舞がドッペルゲンガーに遭遇した可能性を思いつくだろう。舞はそっと物理準備室を出て自分の教室へ引き上げた。
放課後、物理準備室に一番近いトイレの鏡の前で、前髪を上げて舞は悩んでいた。かすみの言葉を思い出していた。
「舞ちゃん、髪を結わいて彼のところへ行きなさい。そしたら、すぐに戻るわ」
舞は少し考えてから前髪を下ろした。
「やっぱり、やめた」
舞はトイレを出て物理準備室へ向かった。
舞が物理準備室に入ると卓巳は相変わらず同じ顔をしていた。舞は入り口付近に立ったまま、授業の準備か何かで机に向かっていて舞に気付いていない卓巳をじっと見ていた。
そこへ沙織たちが騒がしく入ってきた。裕香のほかに、舞の知らない顔の女生徒がもう一人いた。
沙織は一枚の用紙を卓巳の机の仕事をしている上に無遠慮に置いて言った。
「これ、ゴールデンウィーク明けの最初の週末にやる合宿の企画書ね。目を通しておいてね」
「なに?鎌ヶ井高校七不思議調査研究集会?」
「去年も同じ時期にやったでしょ。毎年恒例なのよ」
「ああ、あの音楽室とか体育倉庫とかを回るきもだめしの事か」
「きもだめしじゃない。ちゃんとした調査よ」
「調査ったって、何も出やしなかったじゃないか」
「そうだけど・・・。とにかく、ちゃんと目を通しておいてよね」
沙織たちが出ていこうとするので卓巳は呼び止めた。
「どこ行くんだよ」
「参加者募集に行くのよ。七不思議のうわさ収集も兼ねてね。うまくいけば会員を増やせるでしょ。一人めぼしい一年生がいるのよ。合宿には興味示したし、なんとなく入会しそうな感じ。期待してて」
別に期待はしてないよと思いつつ沙織たちを見送った卓巳は、ドアの前に突っ立っている舞に気付いて声をかけた。
「あれ?何やってるの?座ったら?」
「はい」
椅子に座った舞に卓巳は言った。
「昨日は珍しく早く帰ったね」
「はい。ちょっと用事がありまして。それより先生」
「ん?」
注目している卓巳に舞は躊躇した。
「えっと、あの・・・」
それでも意を決して舞は切り出した。
「じつは今日、姉が飲み会なんです」
「?」
「それで、あの、一人分の夕食を作るのは面倒だし、だからといってお弁当屋さんというのも味気ないし、それで今日は外食にしたいなって思ったんです」
「・・・」
卓巳には舞が言わんとしている事がわからない。
「でも、一人でお店に入って食事をするのはなんとなく恥ずかしくて・・・」
半分は本当で半分は嘘である。慣れてはいないが恥ずかしいというほどではない。舞はじっと見つめる卓巳の視線に少し沈黙したが、思い切って言った。
「もし・・・あの、もしよかったらなんですが、今日は夕食をご一緒していただけませんか?」
卓巳はしばらくきょとんとしていたが、にっこり笑って言った。
「いいよ。じゃあ、今日は一緒に食べようか」
「本当ですか?」
舞の声がぱっと明るくなった。
「うん。ゆっくり訊きたい事もあったし」
こころなしか卓巳の怖い顔が消えたように舞には思えた。
二夜目 もうひとりの自分 (六)
次の日、舞は卓巳の様子がおかしい事に気付いていた。一見ふつうに思えるのだが、何か話しかけにくい雰囲気を漂わせている。おそらく慎二さんの先輩に会いにいったのが原因だろうことは、なんとなく舞にもわかった。様子がおかしいのはそれからだし、今日も昨日と同じような怖い顔をしているからだ。
大人なのだから放っておいても大丈夫だろうとは思ったが、舞は気になって仕方がなかった。そこで思いついて学校を出た。マジックニードルへ行くためだ。卓巳の幼なじみであるかすみに相談すれば、何か安心できる回答がもらえるような気がした。それに、かすみについて一つだけ気になっている事もあった。
マジックニードルに着いた途端、舞はかすみに大歓迎され、奥の事務所へ通された。むらかみで買ってきた土産のたい焼きを渡すと、かすみは「お茶がいいわね」と言って来客用のふた付きの湯飲みにお茶を入れ、皿に移したたい焼きと一緒に舞の前へ置いた。かすみは寿司屋のような大きい湯飲みと袋のままのたい焼きを自分の前にも置いて座ると言った。
「待ってたのよ。気になって気になって仕方がない事があって」
かすみは無邪気に笑っている。舞にも気になっていることがあったのに、先を越された。
「何でしょうか」
「舞ちゃんの顔」
「えっ?」
「ほら、このあいだは警察へ行かなきゃだったからそれどころじゃなかったけど、あのあと気になっちゃって」
「わたしの顔がですか?」
「うんっ」
かすみは満面の笑みで大きく頷いた。
舞は困惑した。
「わたしの顔なんかの何がそんなに気になるんですか?」
「何がって訊かれても困るけど、まず唇が何ていうか、さくらんぼみたいでめっちゃ可愛いでしょ。そんで、たまに見える目が丸くって瞳も大きいでしょ。そうなると全体像を見てみたくなるじゃない」
「そうですか?たいした顔じゃないですよ」
「見せたくないなら、無理にとは言わないけど」
「見せたくないってわけではないですけど・・・」
舞は少し考えてから「こんな感じです」と言って前髪を掻き分けて一瞬顔を見せると、すぐに元に戻した。
「ちょっと、ちょっと待って」
かすみは慌てて立ち上がり、机からバレッタを取ってくると、舞のそばまで来て鼻息も荒く言った。
「もう一回、もっとちゃんと見せて。いい?」
「え、ええまあ」
かすみは舞の前髪を後ろへ流してバレッタで留めた。それから舞の正面にしゃがむと、じっと顔を見つめた。
あまりにも凝視されて舞の視線は泳いだ。白い頬が恥ずかしさでほんのり染まった。
「あ、あの」
その舞の声に反応したように、かすみは呟いた。
「かわいい・・・」
かすみはしばらく呆然と見つめていたが、自分の椅子に戻って訊いた。
「こんなに可愛いのに、何で隠してるの?その辺のアイドルなんて目じゃないよ」
「そんな・・・」
舞は下を向いてもじもじしている。
「コンプレックスでもあるの?」
「あの・・・」
舞は困り顔でかすみをちらりと見たが、またすぐに視線を落とした。さっきまでの舞とは明らかに様子が違う。
「あ、もしかして、顔を出すとしゃべれないとか?」
かすみの問いに、舞は小さく頷いた。
「ごめん、ごめん。戻していいよ」
「あうっ」
舞は変な声を出すと、慌ててバレッタを外した。そして、大きく深呼吸した。
「大丈夫?」
かすみが心配そうに訊くと、舞は多少ダメージが残っているような不安定な声で答えた。
「大丈夫です」
「もう、しゃべれる?」
「はい」
返事を聞いて、かすみは興味津々に質問した。
「ねえ、なんで?なんで顔を出すとしゃべれなくなるの?」
「全くしゃべれなくなるって訳ではないんです。ただ、中学を卒業してからずっと出してなかったので緊張しました」
「中学の時は出してたの?」
「学校でだけは。長い髪は結わくのが校則でしたから」
「高校では出さないの?」
「嫌ですよ」
「もてるわよ」
「どうでもいいです」
「もったいないなあ。隠してる顔を出したら実は美少女でしたなんて、そんな典型的なご都合パターン、現実にはなかなかあるもんじゃないのに」
「面白がってますか?」
「だって、ヒマなんだもん」
悪びれる事もなく言うかすみが不思議と憎めない。
「ヒマなら相談にのってくれませんか」
「相談?」
かすみのペースに乗ってしまうと、なかなか本題に入れそうもない。舞はここぞと切り出した。
いま卓巳の様子がおかしい事、そこに至るまでの経緯を舞は詳しく説明してから、かすみに訊いた。
「どうしたらいいでしょうか」
「別に、ほっとけばいいわよ。そのうち元に戻るから」
「よくある事なんですか?」
「たまにかな。たぶん、その先輩って人に不謹慎て言われたのが原因だと思うわ」
「でも、そのあとも訊く事はちゃんと訊いてましたよ」
「だから余計よ。彼、自分が非常識だってこと、わかったうえで気にしてるのよ」
「非常識?」
「っていうか、子供なのよ。好奇心を満たそうとすると、都合の悪い事は見えなくなっちゃうみたい。大人の常識が好奇心に負けちゃうのよね」
かすみのその言葉に、舞は意外だと言わんばかりに驚いた声を出した。
「ちょっと待ってください。って事は、そのとき先生には都合の悪い事が見えなくなってしまうくらい好奇心が有ったってことですよね」
「なに?興味がないような顔してるの?」
「はい」
「絶対に嘘。・・・あれ?興味あるから、その、なに?心霊研究会?その顧問になったんじゃないの?」
「それは、たまたまみたいです」
「あ、そう。けど、まんざらでもないはずよ」
「嫌々つきあってるように見えますけど」
「嫌々に見えて、実は好奇心でいっぱいなのよ。それで、その先輩って人に不謹慎って言われて、我に返ってへこんでるってわけ。ずっと象牙の塔にいたからね。社会常識が身に付かずにきちゃった事を自覚してるのよ」
「でも、それは仕方のない事ですよ」
「本人は、そうは思ってないわ。人とうまく付き合いたい、普通の社会生活が送りたいって思ってるの」
「そうなんですか?」
「そうなの。でも、うまくいかない。そりゃそうよ。気は小さいし、ほんとに子供なんだもん」
「うーん。学校ではクールだし大人の男ってイメージで通ってますけど」
「本性を隠してるのよ。彼、なんだか気取った食べ物ばかり食べない?」
かすみの顔が悪戯っぽく変わった。
「んー、気取った食べ物っていうのが、よくわからないですけど」
「たとえばねえ、えーと、寿司ならえんがわとかこはだとか?スパゲティならプッタネスカとかジェノヴェーゼとか」
「あ、きのうジェノヴェーゼ食べてました」
「でっしょう。ほんとは寿司なら玉子とかサラダの軍艦巻きとかが好きだし、スパゲティなら絶対ナポリタンなのよ。それからチキンライスとかオムライスとか、とにかくケチャップが掛かってるのが好きね。クラムチャウダーとかオニオンスープよりコーンクリームスープだし、ハンバーグとかエビフライとかマカロニグラタンとか子供の好むようなものが大好きなの。さすがに頼みはしないけど、お子様ランチは理想のメニューなんじゃない?」
「なるほど」
舞はいつの間にか身を乗り出していた。
「お酒もマティーニとかジントニックを頼まない?」
「いえ、お酒は知りませんよ。わたし未成年です」
「彼が好きなのはカルーアミルクよ。それか、カルピスサワー」
「はあ」
「甘いもの、食べないでしょ。コーヒーばっかりで」
「ええ。見たことないですね、食べてるの」
「大っっ好きよ。特にクリーム系。パフェとか普通に頼むわよ。あとプリンなんか大好きね。あ、コーヒーは確かに好きなのよ。でも、ほんとは最後に少しだけ残しておいてポーションのミルクを三つぐらい入れて飲みたいのよ」
「へえー」
身を乗り出して興味津々の舞に気付いて、かすみは人差し指を口の前に立てた。
「あ、でも、あたしが喋ったこと内緒ね。けっこう気にしてるみたいなの。よっぽど気を許した人間にしかそーゆーとこ見せないから。あたしにはどーでもいい事にしか思えないもんで、ついついぺらぺら喋っちゃうんだけどね」
かすみの口の滑りがいいのは、舞にとってはありがたい。
かすみはさすがに幼なじみだけあって卓巳の事を良くわかっている。舞はここに来て正解だったと思った。
「先生の様子がおかしいのは、いつもどのくらいで元に戻りますか?」
「そんなのわかんないわよ。すぐ戻るかもしれないし、引きずる事もあるし」
「引きずるって、どれくらいですか?」
「それより、すぐに戻る方法を知りたくない?」
かすみがニヤついている。何かを企んでいるような顔だ。舞は恐る恐る訊いた。
「すぐに戻るんですか?」
「十中八九ね。知りたい?」
「え、ええ。もちろん」
「そしたらね・・・」
満面の笑みのかすみに、舞は固唾を呑んだ。
かすみは続けた。
「舞ちゃん、髪を結わいて彼のところへ行きなさい。そしたら、すぐに戻るわ」
「はぁっ?」
舞は間抜けな声をあげた。
「ほんとは前髪短く切ったほうがいいんだけど、嫌でしょ?」
「は、はい」
「ポニーテールかツインテールがいいわね。舞ちゃんのミルクの香りがしそうなロリっぽさって、絶対に彼のツボだから」
「ミ、ミルクの香りって・・・」
舞にはかすみの言っている事がいまひとつ理解できない。
「あとはスカートを腰のところで巻き上げて、もう少し短くすれば完璧よ」
「これ以上、短くしたらパンツ見えちゃいます」
「いいじゃない。減るもんじゃなし。そのほうが彼も、より元気になるわ」
「じょ、冗談で言っているんですよね」
かすみの顔が急に真剣になった。そして舞をじっと見つめると言った。
「大マジよ」
それからかすみは声を高らかに笑った。冗談なのか本気なのか、舞にはわからなかった。
マジックニードルから駅へ向かう道を歩きながら、舞は卓巳の様子がおかしいのを思い出していた。かすみは放っておいても大丈夫だと言っていた。考えてみれば自分の倍以上も年上の男を元気づけたいなんて、おこがましいのかもしれない。
「あ、忘れた」
舞は気になっていた事をかすみに訊きそびれたのを思い出した。
「ま、次でいいか」
今回は舞にとって大きな収穫があった。卓巳は沙織や裕香に嫌々つきあってるように見えるが、どうやらまんざらでもないようなのだ。それだけで今はよかった。
舞は考えるのをやめて、ふと前方に目を向けた。すると駅の方から見たことのある人物が歩いてくる。卓巳だ。もしかしたらマジックニードルへ向かっているのだろうか。
舞は声の届くところまで近づいてから呼びかけた。
「先生」
ところが卓巳は声をかけられた事に気付いているはずなのに、舞に視線を向けたまま無表情ですれ違った。
舞は振り向いて、歩いていく卓巳の背中を目で追った。何か違和感があった。
「待ってください」
すると卓巳はぴたりと止まり、ゆっくりと振り返った。無表情のままだ。
舞はほとんど無意識に質問していた。
「あなた、だれですか?」
すると卓巳は眉間にしわを寄せて少し怖い顔になり、それから徐々にニタリと笑った。
「!」
舞は確信した。これは卓巳ではない。
次の瞬間、卓巳と同じ顔の何かは足早に商店街の方へ歩き去った。あまりの事に少しのあいだ動けなくなっていた舞は、我に返ると同時にあとを追って商店街の方へ走り出した。けれども、すでに卓巳らしき何かの姿はどこにも無かった。
大人なのだから放っておいても大丈夫だろうとは思ったが、舞は気になって仕方がなかった。そこで思いついて学校を出た。マジックニードルへ行くためだ。卓巳の幼なじみであるかすみに相談すれば、何か安心できる回答がもらえるような気がした。それに、かすみについて一つだけ気になっている事もあった。
マジックニードルに着いた途端、舞はかすみに大歓迎され、奥の事務所へ通された。むらかみで買ってきた土産のたい焼きを渡すと、かすみは「お茶がいいわね」と言って来客用のふた付きの湯飲みにお茶を入れ、皿に移したたい焼きと一緒に舞の前へ置いた。かすみは寿司屋のような大きい湯飲みと袋のままのたい焼きを自分の前にも置いて座ると言った。
「待ってたのよ。気になって気になって仕方がない事があって」
かすみは無邪気に笑っている。舞にも気になっていることがあったのに、先を越された。
「何でしょうか」
「舞ちゃんの顔」
「えっ?」
「ほら、このあいだは警察へ行かなきゃだったからそれどころじゃなかったけど、あのあと気になっちゃって」
「わたしの顔がですか?」
「うんっ」
かすみは満面の笑みで大きく頷いた。
舞は困惑した。
「わたしの顔なんかの何がそんなに気になるんですか?」
「何がって訊かれても困るけど、まず唇が何ていうか、さくらんぼみたいでめっちゃ可愛いでしょ。そんで、たまに見える目が丸くって瞳も大きいでしょ。そうなると全体像を見てみたくなるじゃない」
「そうですか?たいした顔じゃないですよ」
「見せたくないなら、無理にとは言わないけど」
「見せたくないってわけではないですけど・・・」
舞は少し考えてから「こんな感じです」と言って前髪を掻き分けて一瞬顔を見せると、すぐに元に戻した。
「ちょっと、ちょっと待って」
かすみは慌てて立ち上がり、机からバレッタを取ってくると、舞のそばまで来て鼻息も荒く言った。
「もう一回、もっとちゃんと見せて。いい?」
「え、ええまあ」
かすみは舞の前髪を後ろへ流してバレッタで留めた。それから舞の正面にしゃがむと、じっと顔を見つめた。
あまりにも凝視されて舞の視線は泳いだ。白い頬が恥ずかしさでほんのり染まった。
「あ、あの」
その舞の声に反応したように、かすみは呟いた。
「かわいい・・・」
かすみはしばらく呆然と見つめていたが、自分の椅子に戻って訊いた。
「こんなに可愛いのに、何で隠してるの?その辺のアイドルなんて目じゃないよ」
「そんな・・・」
舞は下を向いてもじもじしている。
「コンプレックスでもあるの?」
「あの・・・」
舞は困り顔でかすみをちらりと見たが、またすぐに視線を落とした。さっきまでの舞とは明らかに様子が違う。
「あ、もしかして、顔を出すとしゃべれないとか?」
かすみの問いに、舞は小さく頷いた。
「ごめん、ごめん。戻していいよ」
「あうっ」
舞は変な声を出すと、慌ててバレッタを外した。そして、大きく深呼吸した。
「大丈夫?」
かすみが心配そうに訊くと、舞は多少ダメージが残っているような不安定な声で答えた。
「大丈夫です」
「もう、しゃべれる?」
「はい」
返事を聞いて、かすみは興味津々に質問した。
「ねえ、なんで?なんで顔を出すとしゃべれなくなるの?」
「全くしゃべれなくなるって訳ではないんです。ただ、中学を卒業してからずっと出してなかったので緊張しました」
「中学の時は出してたの?」
「学校でだけは。長い髪は結わくのが校則でしたから」
「高校では出さないの?」
「嫌ですよ」
「もてるわよ」
「どうでもいいです」
「もったいないなあ。隠してる顔を出したら実は美少女でしたなんて、そんな典型的なご都合パターン、現実にはなかなかあるもんじゃないのに」
「面白がってますか?」
「だって、ヒマなんだもん」
悪びれる事もなく言うかすみが不思議と憎めない。
「ヒマなら相談にのってくれませんか」
「相談?」
かすみのペースに乗ってしまうと、なかなか本題に入れそうもない。舞はここぞと切り出した。
いま卓巳の様子がおかしい事、そこに至るまでの経緯を舞は詳しく説明してから、かすみに訊いた。
「どうしたらいいでしょうか」
「別に、ほっとけばいいわよ。そのうち元に戻るから」
「よくある事なんですか?」
「たまにかな。たぶん、その先輩って人に不謹慎て言われたのが原因だと思うわ」
「でも、そのあとも訊く事はちゃんと訊いてましたよ」
「だから余計よ。彼、自分が非常識だってこと、わかったうえで気にしてるのよ」
「非常識?」
「っていうか、子供なのよ。好奇心を満たそうとすると、都合の悪い事は見えなくなっちゃうみたい。大人の常識が好奇心に負けちゃうのよね」
かすみのその言葉に、舞は意外だと言わんばかりに驚いた声を出した。
「ちょっと待ってください。って事は、そのとき先生には都合の悪い事が見えなくなってしまうくらい好奇心が有ったってことですよね」
「なに?興味がないような顔してるの?」
「はい」
「絶対に嘘。・・・あれ?興味あるから、その、なに?心霊研究会?その顧問になったんじゃないの?」
「それは、たまたまみたいです」
「あ、そう。けど、まんざらでもないはずよ」
「嫌々つきあってるように見えますけど」
「嫌々に見えて、実は好奇心でいっぱいなのよ。それで、その先輩って人に不謹慎って言われて、我に返ってへこんでるってわけ。ずっと象牙の塔にいたからね。社会常識が身に付かずにきちゃった事を自覚してるのよ」
「でも、それは仕方のない事ですよ」
「本人は、そうは思ってないわ。人とうまく付き合いたい、普通の社会生活が送りたいって思ってるの」
「そうなんですか?」
「そうなの。でも、うまくいかない。そりゃそうよ。気は小さいし、ほんとに子供なんだもん」
「うーん。学校ではクールだし大人の男ってイメージで通ってますけど」
「本性を隠してるのよ。彼、なんだか気取った食べ物ばかり食べない?」
かすみの顔が悪戯っぽく変わった。
「んー、気取った食べ物っていうのが、よくわからないですけど」
「たとえばねえ、えーと、寿司ならえんがわとかこはだとか?スパゲティならプッタネスカとかジェノヴェーゼとか」
「あ、きのうジェノヴェーゼ食べてました」
「でっしょう。ほんとは寿司なら玉子とかサラダの軍艦巻きとかが好きだし、スパゲティなら絶対ナポリタンなのよ。それからチキンライスとかオムライスとか、とにかくケチャップが掛かってるのが好きね。クラムチャウダーとかオニオンスープよりコーンクリームスープだし、ハンバーグとかエビフライとかマカロニグラタンとか子供の好むようなものが大好きなの。さすがに頼みはしないけど、お子様ランチは理想のメニューなんじゃない?」
「なるほど」
舞はいつの間にか身を乗り出していた。
「お酒もマティーニとかジントニックを頼まない?」
「いえ、お酒は知りませんよ。わたし未成年です」
「彼が好きなのはカルーアミルクよ。それか、カルピスサワー」
「はあ」
「甘いもの、食べないでしょ。コーヒーばっかりで」
「ええ。見たことないですね、食べてるの」
「大っっ好きよ。特にクリーム系。パフェとか普通に頼むわよ。あとプリンなんか大好きね。あ、コーヒーは確かに好きなのよ。でも、ほんとは最後に少しだけ残しておいてポーションのミルクを三つぐらい入れて飲みたいのよ」
「へえー」
身を乗り出して興味津々の舞に気付いて、かすみは人差し指を口の前に立てた。
「あ、でも、あたしが喋ったこと内緒ね。けっこう気にしてるみたいなの。よっぽど気を許した人間にしかそーゆーとこ見せないから。あたしにはどーでもいい事にしか思えないもんで、ついついぺらぺら喋っちゃうんだけどね」
かすみの口の滑りがいいのは、舞にとってはありがたい。
かすみはさすがに幼なじみだけあって卓巳の事を良くわかっている。舞はここに来て正解だったと思った。
「先生の様子がおかしいのは、いつもどのくらいで元に戻りますか?」
「そんなのわかんないわよ。すぐ戻るかもしれないし、引きずる事もあるし」
「引きずるって、どれくらいですか?」
「それより、すぐに戻る方法を知りたくない?」
かすみがニヤついている。何かを企んでいるような顔だ。舞は恐る恐る訊いた。
「すぐに戻るんですか?」
「十中八九ね。知りたい?」
「え、ええ。もちろん」
「そしたらね・・・」
満面の笑みのかすみに、舞は固唾を呑んだ。
かすみは続けた。
「舞ちゃん、髪を結わいて彼のところへ行きなさい。そしたら、すぐに戻るわ」
「はぁっ?」
舞は間抜けな声をあげた。
「ほんとは前髪短く切ったほうがいいんだけど、嫌でしょ?」
「は、はい」
「ポニーテールかツインテールがいいわね。舞ちゃんのミルクの香りがしそうなロリっぽさって、絶対に彼のツボだから」
「ミ、ミルクの香りって・・・」
舞にはかすみの言っている事がいまひとつ理解できない。
「あとはスカートを腰のところで巻き上げて、もう少し短くすれば完璧よ」
「これ以上、短くしたらパンツ見えちゃいます」
「いいじゃない。減るもんじゃなし。そのほうが彼も、より元気になるわ」
「じょ、冗談で言っているんですよね」
かすみの顔が急に真剣になった。そして舞をじっと見つめると言った。
「大マジよ」
それからかすみは声を高らかに笑った。冗談なのか本気なのか、舞にはわからなかった。
マジックニードルから駅へ向かう道を歩きながら、舞は卓巳の様子がおかしいのを思い出していた。かすみは放っておいても大丈夫だと言っていた。考えてみれば自分の倍以上も年上の男を元気づけたいなんて、おこがましいのかもしれない。
「あ、忘れた」
舞は気になっていた事をかすみに訊きそびれたのを思い出した。
「ま、次でいいか」
今回は舞にとって大きな収穫があった。卓巳は沙織や裕香に嫌々つきあってるように見えるが、どうやらまんざらでもないようなのだ。それだけで今はよかった。
舞は考えるのをやめて、ふと前方に目を向けた。すると駅の方から見たことのある人物が歩いてくる。卓巳だ。もしかしたらマジックニードルへ向かっているのだろうか。
舞は声の届くところまで近づいてから呼びかけた。
「先生」
ところが卓巳は声をかけられた事に気付いているはずなのに、舞に視線を向けたまま無表情ですれ違った。
舞は振り向いて、歩いていく卓巳の背中を目で追った。何か違和感があった。
「待ってください」
すると卓巳はぴたりと止まり、ゆっくりと振り返った。無表情のままだ。
舞はほとんど無意識に質問していた。
「あなた、だれですか?」
すると卓巳は眉間にしわを寄せて少し怖い顔になり、それから徐々にニタリと笑った。
「!」
舞は確信した。これは卓巳ではない。
次の瞬間、卓巳と同じ顔の何かは足早に商店街の方へ歩き去った。あまりの事に少しのあいだ動けなくなっていた舞は、我に返ると同時にあとを追って商店街の方へ走り出した。けれども、すでに卓巳らしき何かの姿はどこにも無かった。
二夜目 もうひとりの自分 (五)
確信犯だと卓巳は思った。いや、こういった場合に「確信犯」という言葉が一般的には多く使われているが、本来「確信犯」とは宗教的、政治的信念に基づいて正しいのだと確信して法をやぶる犯罪者の事で、沙織にそんな信念はない。ただし卓巳の財布の紐が緩いという確信だけは、腹の立つことに有るようだ。
「ごちそうさまでーす」
沙織は満面の笑みだ。
「すみません。ごちそうになります」
舞は表情がよくわからない。
「お相伴にあずかりまーす。ごっつぁんです、親方」
裕香は性格がよくわからない。
新成海駅前で十二時に集合と沙織が言いだしたとき、卓巳には嫌な予感があった。というよりは覚悟していたと言ったほうが正確かもしれない。待ち合わせの直後に沙織に昼食をおごらされる、このパターンは何度か記憶にある。
裕香が言った。
「先生は相変わらず、こじゃれたもの食べてるね」
「なんだ、こじゃれたって」
「でも、それしか食べないの?」
卓巳はスパゲティ・ジェノヴェーゼのスモールサイズを食べていた。
「朝ごはんが遅かったから、お腹すいてないんだよ」
嘘である。昨晩は新任者歓迎会の会費を払い、今日は生徒3人にご馳走したら正直つらい。スモールサイズはサービス価格なのだ。それなのに沙織は遠慮なくデザートまで食べた。チョコレートパフェをほおばりながら、沙織は言った。
「裕香は食べないの?」
「ちょっとお腹のお肉が気になっちゃって」
裕香はお腹を手のひらで二回叩き、いい音を立てた。
「舞ちゃんは?」
「もう、お腹いっぱいです」
舞はお腹にそっと手を当てた。
「先生は甘いもの、あんまり食べないもんね。コーヒーばっかりで」
「まあな」
卓巳は裕香と舞がデザートを頼まなかった事を心の底から感謝した。
2組の島田さんに聞いて村田慎二の先輩の家はわかっていた。中学時代の先輩だったので、村田慎二の家と同じく新成海駅から歩いて行ける所だ。
その先輩の家はすぐに見つかった。呼び出すと、運よく本人が家にいた。さっそく卓巳は村田慎二のドッペルゲンガー体験について訊いてみた。すると先輩は少し考えてから静かに言った。
「不謹慎だとはお感じになりませんか。俺にとってはかわいい後輩だったんです。そいつが死んで、俺だってものすごく悲しいんですよ。それなのに、わざわざ訪ねてくるからどんなに大事な話かと思えば、ドッペルゲンガー?いい大人が何を訊きにきてるんですか。お帰りください」
卓巳は家に入りかけた先輩を慌てて呼び止めた。
「一つだけ教えてください。慎二さんが頻繁に偏頭痛を訴えていたとか、頭に関する事で病院に通っていたとか、そういった話を聞いた事はありませんか?」
先輩は立ち止まり、振り向いた。
「確かに慎二は頭痛持ちで、ちょっとひどいんで薬も持ち歩いてました。でもね、バイクで走ってるときに症状が出たのが事故の原因じゃないかなんて、警察ではとっくに考えてますよ。興味本位で探偵気取りのあなた達に話す事なんて、何もありませんね」
そして少し強めに「さようなら」と言うと、先輩は家に入ってしまった。
「帰ろう」
卓巳が歩き出すと、沙織が追いかけてきて言った。
「ちょっと待ってよ。頭痛とか何とかって、どういうこと?」
「聞いただろ。バイク事故は、たぶん頭痛のせいだよ」
「そうだとしても、ドッペルゲンガーの事はまだ何も聞いてないじゃない」
卓巳は立ち止まり、沙織を見た。
「これ以上、何を聞くんだ?彼が言ってたじゃないか。不謹慎だって。もっともな話だ」
「そうかもしれないけど、何もそんな怖い顔で言わなくてもいいじゃない」
自分でも気付かないうちに、卓巳は怖い顔をしていた。沙織に言われて卓巳は微笑んだが、目だけは笑っていなかった。それでも沙織は続けた。
「だって知りたかったのは事故のことじゃなくて、ドッペルゲンガーの方だもん。心霊研究会がそれを探求して何が悪いの?いたって真剣よ」
「一般の人は、そうは思わない」
成海大学時代に苦い経験をしている卓巳には、そんな事はわかっているつもりだった。けれども一年以上が経って、すっかり忘れてしまっていたようだ。先輩の「いい大人が何を訊きにきてるのか」という言葉が卓巳の頭から離れなかった。
再び歩きだした卓巳を追いかけながら、沙織は言った。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「この件は、もう終わりにしよう」
「嫌よ。中途半端じゃない」
「いつも中途半端じゃないか」
「いつもは現場に行ってるのに現れないんだから諦めもつくじゃない。それにドッペルゲンガーなんて初めてだもん。もったいないじゃない」
「君はドッペルゲンガー、ドッペルゲンガーって言うけど、ドッペルゲンガーって何だかわかってるのか?」
「馬鹿にしないでよ。自分と会っちゃう心霊現象でしょ。会ったら死んじゃうって言われてる」
「それから?」
「それからって、それだけよ」
曲がりなりにも心霊研究会という名前なんだから、噂集めばかりしてないでもっと研究しておけよと卓巳は思う。
「ちょっと、そこ寄るぞ」
卓巳は前方に見えてきた駅前のコーヒースタンドを指差した。財布の中は寒々しいが、飲み物ぐらいなら致し方ない。
飲み物を購入して全員テーブルに着くと、卓巳は話しはじめた。
「ドッペルゲンガーっていうのはな、いろいろな似たような現象の総称でな、『自分が客観的に自分を認識する』現象と、『第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する』現象と、大きく二種類に分類されるんだ。また現象だけじゃなく、その対象自体をドッペルゲンガーと呼ぶ事もある。原因についてはいろいろな仮説が立てられていて、心霊現象ってだけじゃない。ただの錯覚だったり、オートスコピーっていう医学的症状だと言われていたり、仮に心霊現象だとしても考え方はたくさんある。確かに現象に遭って死んだ例もあるけど、必ず死ぬとも限らない」
卓巳が成海大学にいたころは、ドッペルゲンガーについても当然のように研究していた。事例や体験談も集められるだけ集めたし、それぞれを現象の違いや考え得る仮説を元に細かく分類した。
事例や体験談は様々なパターンが存在する。たいていはドッペルゲンガーの対象は何もしゃべらない。けれども長々と話をしたという例もある。はっきりと一人の人間の形をしていた場合もあるし、部分的だった、白黒だった、透けていた、影だった、歳をとった自分だった、子供の自分だった、服が違った、裸だったなど、証言は多様だ。気配だけとか、声だけとかの場合もある。
面白いのは「自分が客観的に自分を認識する」場合、どんな形であろうとそれが自分であると本人が確信して疑わないこと。たとえドアの隙間から目しか覗いていなかったとしても、自分が覗いているんだと思い込んでしまうのである。
医学の世界では脳腫瘍による圧迫や偏頭痛が発生する際の血流の異常などが脳の側頭葉と頭頂葉の境界にあるボディーイメージを司る領域で起こり、自分の体の形や大きさを正しく認識できず、実際の肉体とは別の物として認識されてしまい起こる症状とされている。
このような医学的な説明は「第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する」例には当てはまらないが、個人を識別して記憶する脳のメカニズムについての学説を使い、それを説明する研究者がいる。
例えば二人の人間を実際に並べて比較したりするとはっきり別人として認識できるのに、対象が一人でいると区別のつかない場合がある。これは顔ニューロンによる識別はできているのに、記憶する際に顔に有るその個人を特定できる特徴、言ってみれば符号のようなもののみを記憶しているために、二人の符号が偶然一致してしまい起きている。つまり「第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する」のは、本人と符号が一致してしまう別人がいるからだという。要はその本人をありがちな符号で識別していたために他人の符号と一致しやすく、識別ミスを起こしただけだという仮説だ。テレビを見ていて、出演している芸能人をムードや体型が似ているというだけで、顔の似てもいない全く別の芸能人と勘違いしていたなんて事は珍しい話ではない。
卓巳は多くの事例で医学的説明や識別ミスの説明が当てはまるだろうと考えていたが、分類の段階でどうしても当てはまらない事例が存在する。例えば、まさか自分の夫を識別ミスなどするはずのない妻が、昼時に街で夫とばったり会って一緒に食事をし、仕事に戻ると言う夫と別れて家に帰ってくると、午前中に具合が悪くて帰ってきたという夫が寝ていて、妻と食事をした覚えなど無いという。ひねくれた見方をすれば、その証言には人間臭い裏があるとも考えられるが、そういった例はそれ一例ではない。意外と多いのだ。不確かではあるが心霊現象という前提を持ち出せば仮説を立てやすくなる。
心霊現象が前提なら、幽体離脱説から生き霊説から憑依説から霊のへんげ説から、様々な仮説が立てられる。卓巳の専門外ではあるがSFの世界にまで枠を拡げれば、時間移動説、超能力説、クローン人間説、アンドロイド説や宇宙人説なんていうものまで世の中には存在する。
「先生、なんでそんなに詳しいの?」
ひと講義が終わったところで沙織が訊いた。卓巳はできれば大学の話を避けたい。
「テレビでやってたんだよ」
「へー。意外とマニアックな番組見るんだね、先生」
マニアックな同好会の会長に言われたくない。
「とにかく、慎二さんが脳に何かしらの病気を持っていたなら、彼が体験したドッペルゲンガーはその症状の一つと考えるのが最も自然だ。事故現場にドッペルゲンガーが現れたなんて話も、まんざらデタラメじゃないのかもしれない。だから、もう充分だろ」
「んー、そんなオチじゃつまんないけど、筋は通ってるなぁ」
沙織が本当につまらなそうに言うと、裕香が笑顔で言った。
「ぐうの音も出ないね」
「ははは」
卓巳は笑ったが、作り笑いだということを舞は敏感に察していた。
「ごちそうさまでーす」
沙織は満面の笑みだ。
「すみません。ごちそうになります」
舞は表情がよくわからない。
「お相伴にあずかりまーす。ごっつぁんです、親方」
裕香は性格がよくわからない。
新成海駅前で十二時に集合と沙織が言いだしたとき、卓巳には嫌な予感があった。というよりは覚悟していたと言ったほうが正確かもしれない。待ち合わせの直後に沙織に昼食をおごらされる、このパターンは何度か記憶にある。
裕香が言った。
「先生は相変わらず、こじゃれたもの食べてるね」
「なんだ、こじゃれたって」
「でも、それしか食べないの?」
卓巳はスパゲティ・ジェノヴェーゼのスモールサイズを食べていた。
「朝ごはんが遅かったから、お腹すいてないんだよ」
嘘である。昨晩は新任者歓迎会の会費を払い、今日は生徒3人にご馳走したら正直つらい。スモールサイズはサービス価格なのだ。それなのに沙織は遠慮なくデザートまで食べた。チョコレートパフェをほおばりながら、沙織は言った。
「裕香は食べないの?」
「ちょっとお腹のお肉が気になっちゃって」
裕香はお腹を手のひらで二回叩き、いい音を立てた。
「舞ちゃんは?」
「もう、お腹いっぱいです」
舞はお腹にそっと手を当てた。
「先生は甘いもの、あんまり食べないもんね。コーヒーばっかりで」
「まあな」
卓巳は裕香と舞がデザートを頼まなかった事を心の底から感謝した。
2組の島田さんに聞いて村田慎二の先輩の家はわかっていた。中学時代の先輩だったので、村田慎二の家と同じく新成海駅から歩いて行ける所だ。
その先輩の家はすぐに見つかった。呼び出すと、運よく本人が家にいた。さっそく卓巳は村田慎二のドッペルゲンガー体験について訊いてみた。すると先輩は少し考えてから静かに言った。
「不謹慎だとはお感じになりませんか。俺にとってはかわいい後輩だったんです。そいつが死んで、俺だってものすごく悲しいんですよ。それなのに、わざわざ訪ねてくるからどんなに大事な話かと思えば、ドッペルゲンガー?いい大人が何を訊きにきてるんですか。お帰りください」
卓巳は家に入りかけた先輩を慌てて呼び止めた。
「一つだけ教えてください。慎二さんが頻繁に偏頭痛を訴えていたとか、頭に関する事で病院に通っていたとか、そういった話を聞いた事はありませんか?」
先輩は立ち止まり、振り向いた。
「確かに慎二は頭痛持ちで、ちょっとひどいんで薬も持ち歩いてました。でもね、バイクで走ってるときに症状が出たのが事故の原因じゃないかなんて、警察ではとっくに考えてますよ。興味本位で探偵気取りのあなた達に話す事なんて、何もありませんね」
そして少し強めに「さようなら」と言うと、先輩は家に入ってしまった。
「帰ろう」
卓巳が歩き出すと、沙織が追いかけてきて言った。
「ちょっと待ってよ。頭痛とか何とかって、どういうこと?」
「聞いただろ。バイク事故は、たぶん頭痛のせいだよ」
「そうだとしても、ドッペルゲンガーの事はまだ何も聞いてないじゃない」
卓巳は立ち止まり、沙織を見た。
「これ以上、何を聞くんだ?彼が言ってたじゃないか。不謹慎だって。もっともな話だ」
「そうかもしれないけど、何もそんな怖い顔で言わなくてもいいじゃない」
自分でも気付かないうちに、卓巳は怖い顔をしていた。沙織に言われて卓巳は微笑んだが、目だけは笑っていなかった。それでも沙織は続けた。
「だって知りたかったのは事故のことじゃなくて、ドッペルゲンガーの方だもん。心霊研究会がそれを探求して何が悪いの?いたって真剣よ」
「一般の人は、そうは思わない」
成海大学時代に苦い経験をしている卓巳には、そんな事はわかっているつもりだった。けれども一年以上が経って、すっかり忘れてしまっていたようだ。先輩の「いい大人が何を訊きにきてるのか」という言葉が卓巳の頭から離れなかった。
再び歩きだした卓巳を追いかけながら、沙織は言った。
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「この件は、もう終わりにしよう」
「嫌よ。中途半端じゃない」
「いつも中途半端じゃないか」
「いつもは現場に行ってるのに現れないんだから諦めもつくじゃない。それにドッペルゲンガーなんて初めてだもん。もったいないじゃない」
「君はドッペルゲンガー、ドッペルゲンガーって言うけど、ドッペルゲンガーって何だかわかってるのか?」
「馬鹿にしないでよ。自分と会っちゃう心霊現象でしょ。会ったら死んじゃうって言われてる」
「それから?」
「それからって、それだけよ」
曲がりなりにも心霊研究会という名前なんだから、噂集めばかりしてないでもっと研究しておけよと卓巳は思う。
「ちょっと、そこ寄るぞ」
卓巳は前方に見えてきた駅前のコーヒースタンドを指差した。財布の中は寒々しいが、飲み物ぐらいなら致し方ない。
飲み物を購入して全員テーブルに着くと、卓巳は話しはじめた。
「ドッペルゲンガーっていうのはな、いろいろな似たような現象の総称でな、『自分が客観的に自分を認識する』現象と、『第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する』現象と、大きく二種類に分類されるんだ。また現象だけじゃなく、その対象自体をドッペルゲンガーと呼ぶ事もある。原因についてはいろいろな仮説が立てられていて、心霊現象ってだけじゃない。ただの錯覚だったり、オートスコピーっていう医学的症状だと言われていたり、仮に心霊現象だとしても考え方はたくさんある。確かに現象に遭って死んだ例もあるけど、必ず死ぬとも限らない」
卓巳が成海大学にいたころは、ドッペルゲンガーについても当然のように研究していた。事例や体験談も集められるだけ集めたし、それぞれを現象の違いや考え得る仮説を元に細かく分類した。
事例や体験談は様々なパターンが存在する。たいていはドッペルゲンガーの対象は何もしゃべらない。けれども長々と話をしたという例もある。はっきりと一人の人間の形をしていた場合もあるし、部分的だった、白黒だった、透けていた、影だった、歳をとった自分だった、子供の自分だった、服が違った、裸だったなど、証言は多様だ。気配だけとか、声だけとかの場合もある。
面白いのは「自分が客観的に自分を認識する」場合、どんな形であろうとそれが自分であると本人が確信して疑わないこと。たとえドアの隙間から目しか覗いていなかったとしても、自分が覗いているんだと思い込んでしまうのである。
医学の世界では脳腫瘍による圧迫や偏頭痛が発生する際の血流の異常などが脳の側頭葉と頭頂葉の境界にあるボディーイメージを司る領域で起こり、自分の体の形や大きさを正しく認識できず、実際の肉体とは別の物として認識されてしまい起こる症状とされている。
このような医学的な説明は「第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する」例には当てはまらないが、個人を識別して記憶する脳のメカニズムについての学説を使い、それを説明する研究者がいる。
例えば二人の人間を実際に並べて比較したりするとはっきり別人として認識できるのに、対象が一人でいると区別のつかない場合がある。これは顔ニューロンによる識別はできているのに、記憶する際に顔に有るその個人を特定できる特徴、言ってみれば符号のようなもののみを記憶しているために、二人の符号が偶然一致してしまい起きている。つまり「第三者が本人とは別の場所で本人らしきものと遭遇する」のは、本人と符号が一致してしまう別人がいるからだという。要はその本人をありがちな符号で識別していたために他人の符号と一致しやすく、識別ミスを起こしただけだという仮説だ。テレビを見ていて、出演している芸能人をムードや体型が似ているというだけで、顔の似てもいない全く別の芸能人と勘違いしていたなんて事は珍しい話ではない。
卓巳は多くの事例で医学的説明や識別ミスの説明が当てはまるだろうと考えていたが、分類の段階でどうしても当てはまらない事例が存在する。例えば、まさか自分の夫を識別ミスなどするはずのない妻が、昼時に街で夫とばったり会って一緒に食事をし、仕事に戻ると言う夫と別れて家に帰ってくると、午前中に具合が悪くて帰ってきたという夫が寝ていて、妻と食事をした覚えなど無いという。ひねくれた見方をすれば、その証言には人間臭い裏があるとも考えられるが、そういった例はそれ一例ではない。意外と多いのだ。不確かではあるが心霊現象という前提を持ち出せば仮説を立てやすくなる。
心霊現象が前提なら、幽体離脱説から生き霊説から憑依説から霊のへんげ説から、様々な仮説が立てられる。卓巳の専門外ではあるがSFの世界にまで枠を拡げれば、時間移動説、超能力説、クローン人間説、アンドロイド説や宇宙人説なんていうものまで世の中には存在する。
「先生、なんでそんなに詳しいの?」
ひと講義が終わったところで沙織が訊いた。卓巳はできれば大学の話を避けたい。
「テレビでやってたんだよ」
「へー。意外とマニアックな番組見るんだね、先生」
マニアックな同好会の会長に言われたくない。
「とにかく、慎二さんが脳に何かしらの病気を持っていたなら、彼が体験したドッペルゲンガーはその症状の一つと考えるのが最も自然だ。事故現場にドッペルゲンガーが現れたなんて話も、まんざらデタラメじゃないのかもしれない。だから、もう充分だろ」
「んー、そんなオチじゃつまんないけど、筋は通ってるなぁ」
沙織が本当につまらなそうに言うと、裕香が笑顔で言った。
「ぐうの音も出ないね」
「ははは」
卓巳は笑ったが、作り笑いだということを舞は敏感に察していた。
二夜目 もうひとりの自分 (四)
土曜日の夜、鎌ヶ井駅近くの居酒屋の広い座敷で新任者歓迎会は行われていたが、やっぱり来なければよかったと卓巳は後悔しはじめていた。期待が見事に裏切られたからだ。
始まってから一時間も経つと酒がだいぶ回ってきて、座はますます盛り上がっていた。けれども卓巳だけは隅の席で一人ぽつんと飲んでいた。
卓巳が赴任してきたばかりの頃は、飲み会などについでのように声をかけられる事はたまにあったが、あからさまに「仕方なく声をかけている」感じなので卓巳も行く気になれず、適当に断ってきた。そうしているうちに誘われることはなくなった。
それでも忘年会や新年会のような全体の集まりでは必ず声をかけられたが、出席したところで浮いてしまうのは目に見えていたので欠席してきた。
それが最近では他の教師たちの卓巳に対する態度が好意的になっていたし、お酒の席なら少しは溶け込む事ができるかと期待して出席したのだ。ところが予想に反して、と言うよりも、やはり思ったとおりと言うべきか、卓巳は完全に浮いていた。もちろん自分にも責任はある。それは卓巳自身わかっているのだが、どうしようもない。
会が始まってすぐは、例の桜の木の下の死体遺棄事件の話を興味津々に訊いてきた周りの教師たちも、すぐに飽きてしまったようだ。それはそうである。幽霊話はしなかったし、事件そのものはそう面白い話でもない。
まもなく男性教師たちの話題はパチンコの新台についてに変わり、女性教師たちの話題は周囲や芸能人の噂話に変わった。そのあと男性教師たちは野球、マージャン、競馬、サッカーといった、卓巳には全く興味の無い、また知識が全く無くて入っていけない話題のフルコースになった。なぜこんなにも画一的なのかと卓巳が首を傾げるほど、卓巳以外のほとんどの男性教師がそれらの話題に参加して盛り上がっていた。それに対して女性教師たちはと言うと、噂話に加えてファッションや恋愛の話がほとんどだった。
また、そういった浮ついた話題に参加していない男性や女性の教師たちも少しはいたが、よく聴くと熱血教育論を戦わせているようだ。巻き込まれるのはご免だった。
「飲んでますかー。平原せーんせ」
いきなり誰かが卓巳の腕を抱え込んだ。二の腕の辺りに丸く柔らかい物が当たっている。岩崎亜矢子だった。
「い、いただいてます」
「あれー?グラス、空じゃないですか。何を飲んでたんですか?」
「マティーニを」
「同じのでいいですか?」
「はあ」
「店員さーん!」
岩崎は身体を乗り出して店員を呼び、マティーニを頼んだ。ますます岩崎の胸が卓巳の腕に押し付けられる。けっこう豊かな胸である。
岩崎はずいぶん酔っていた。
「ちゃんと食べてますか?おつまみ無いじゃないですかぁ」
「大丈夫です」
そう言っているのに、岩崎は卓巳の取り皿を取ると隣のテーブルからつまみをみつくろって山に盛り、身を寄せて皿を卓巳の前に置いた。胸が腕に当たっている。
「平原先生は、お食事はいつもどうしているんですかぁ?」
「昼以外は全部外食です」
「昼は?」
「コンビニ弁当か、カップめんか、たまに店屋物です」
「あら、良くないわ。インスタントや外食ばかりじゃ栄養偏るもの。手作りのものを食べなくちゃ」
岩崎はさらに身体を寄せてきた。胸が当たっている。
「作るの面倒なんです」
「作ってくれる人、いないんですかぁ?」
胸が当たっている。
「いませんよ。そんな人」
「へー、そうなんだぁ。しょうがないなぁ。じゃあ、今度わたしが作ってあげますよ」
胸が当たっている。
「いや、いいですよ」
「むっ。わたしじゃ不満ですかぁ?」
胸が当たっている。
「いえ、そういうわけじゃなくって・・・」
「ねぇ。平原先生って、どんな女性が好みなんですかぁ?」
岩崎が甘ったるい声でしなだれかかってきた。もう胸が当たっているなんてもんじゃない。
「そんな事より岩崎先生」
「なんですかぁ?」
「さっきから、あの・・・胸が当たってるんですが・・・」
「え、なに?」
「胸です。岩崎先生の胸が僕の腕に当たってます」
岩崎は自分の胸をちょっと見てから卓巳に悪戯っぽい笑顔を向けた。
「あーっ。平原先生のえっちぃ」
そう言いつつ離れようとしない。それどころか余計に身体を密着させてくる。
「えっ、そういうんじゃなくて、あの・・・」
「平原先生ってやっぱりあれですかぁ?胸とかっておっきいのが好きなんですかぁ」
「いえ、とんでもない。僕は小さいのが好きなんです」
言ってから卓巳はしまったと思った。
岩崎はしばらく呆けた顔で卓巳を見つめていたが、にっこり笑って言った。
「わかりました、平原先生。わたし、がんばります」
(えっ、いったい何を?)
岩崎は離れない。おまけに、いつの間にか卓巳のマティーニを飲んでいた。
始まってから一時間も経つと酒がだいぶ回ってきて、座はますます盛り上がっていた。けれども卓巳だけは隅の席で一人ぽつんと飲んでいた。
卓巳が赴任してきたばかりの頃は、飲み会などについでのように声をかけられる事はたまにあったが、あからさまに「仕方なく声をかけている」感じなので卓巳も行く気になれず、適当に断ってきた。そうしているうちに誘われることはなくなった。
それでも忘年会や新年会のような全体の集まりでは必ず声をかけられたが、出席したところで浮いてしまうのは目に見えていたので欠席してきた。
それが最近では他の教師たちの卓巳に対する態度が好意的になっていたし、お酒の席なら少しは溶け込む事ができるかと期待して出席したのだ。ところが予想に反して、と言うよりも、やはり思ったとおりと言うべきか、卓巳は完全に浮いていた。もちろん自分にも責任はある。それは卓巳自身わかっているのだが、どうしようもない。
会が始まってすぐは、例の桜の木の下の死体遺棄事件の話を興味津々に訊いてきた周りの教師たちも、すぐに飽きてしまったようだ。それはそうである。幽霊話はしなかったし、事件そのものはそう面白い話でもない。
まもなく男性教師たちの話題はパチンコの新台についてに変わり、女性教師たちの話題は周囲や芸能人の噂話に変わった。そのあと男性教師たちは野球、マージャン、競馬、サッカーといった、卓巳には全く興味の無い、また知識が全く無くて入っていけない話題のフルコースになった。なぜこんなにも画一的なのかと卓巳が首を傾げるほど、卓巳以外のほとんどの男性教師がそれらの話題に参加して盛り上がっていた。それに対して女性教師たちはと言うと、噂話に加えてファッションや恋愛の話がほとんどだった。
また、そういった浮ついた話題に参加していない男性や女性の教師たちも少しはいたが、よく聴くと熱血教育論を戦わせているようだ。巻き込まれるのはご免だった。
「飲んでますかー。平原せーんせ」
いきなり誰かが卓巳の腕を抱え込んだ。二の腕の辺りに丸く柔らかい物が当たっている。岩崎亜矢子だった。
「い、いただいてます」
「あれー?グラス、空じゃないですか。何を飲んでたんですか?」
「マティーニを」
「同じのでいいですか?」
「はあ」
「店員さーん!」
岩崎は身体を乗り出して店員を呼び、マティーニを頼んだ。ますます岩崎の胸が卓巳の腕に押し付けられる。けっこう豊かな胸である。
岩崎はずいぶん酔っていた。
「ちゃんと食べてますか?おつまみ無いじゃないですかぁ」
「大丈夫です」
そう言っているのに、岩崎は卓巳の取り皿を取ると隣のテーブルからつまみをみつくろって山に盛り、身を寄せて皿を卓巳の前に置いた。胸が腕に当たっている。
「平原先生は、お食事はいつもどうしているんですかぁ?」
「昼以外は全部外食です」
「昼は?」
「コンビニ弁当か、カップめんか、たまに店屋物です」
「あら、良くないわ。インスタントや外食ばかりじゃ栄養偏るもの。手作りのものを食べなくちゃ」
岩崎はさらに身体を寄せてきた。胸が当たっている。
「作るの面倒なんです」
「作ってくれる人、いないんですかぁ?」
胸が当たっている。
「いませんよ。そんな人」
「へー、そうなんだぁ。しょうがないなぁ。じゃあ、今度わたしが作ってあげますよ」
胸が当たっている。
「いや、いいですよ」
「むっ。わたしじゃ不満ですかぁ?」
胸が当たっている。
「いえ、そういうわけじゃなくって・・・」
「ねぇ。平原先生って、どんな女性が好みなんですかぁ?」
岩崎が甘ったるい声でしなだれかかってきた。もう胸が当たっているなんてもんじゃない。
「そんな事より岩崎先生」
「なんですかぁ?」
「さっきから、あの・・・胸が当たってるんですが・・・」
「え、なに?」
「胸です。岩崎先生の胸が僕の腕に当たってます」
岩崎は自分の胸をちょっと見てから卓巳に悪戯っぽい笑顔を向けた。
「あーっ。平原先生のえっちぃ」
そう言いつつ離れようとしない。それどころか余計に身体を密着させてくる。
「えっ、そういうんじゃなくて、あの・・・」
「平原先生ってやっぱりあれですかぁ?胸とかっておっきいのが好きなんですかぁ」
「いえ、とんでもない。僕は小さいのが好きなんです」
言ってから卓巳はしまったと思った。
岩崎はしばらく呆けた顔で卓巳を見つめていたが、にっこり笑って言った。
「わかりました、平原先生。わたし、がんばります」
(えっ、いったい何を?)
岩崎は離れない。おまけに、いつの間にか卓巳のマティーニを飲んでいた。




